ノート:地獄とは神の不在なり(テッド・チャン)読んだ!

知り合いに見せる文章なので正確性は一切ない(チキンすぎる前置きだが仕方ない)
このノートは笹澤豊さんの「道徳とその外部」という本に依拠する部分でほぼ占めている。誤解は自分の責任です。

すでに指摘されていたが、地獄とは神の不在なり(以下Hell Is the Absence of Godで"じごふざ!"とする)(頭字語として正しいか知らん)はヨブ記の影響を大きく受けた物語である。物語のモチーフや読解を通して面白い結論を導きたい場合、ヨブ記の特徴に注目するのは一つの手だろう。

ヨブ記における対峙

ギリシャ神話や日本神話のように「神と神」でもなく、他の黙示録に見られるように中心的な話題が「人と人」もしくは「人と神の子」であるのに対しヨブ記は主要な人物として3人の友人が出てくるものの「神と人」の物語だ。集団としての規範、神の子のすばらしさ、我々のあずかり知らぬ神々の物語と比べて「神と人」との物語は、いったい何を代表させることができるのか

[補足]何を代表しているのか、までは断定できないので何を代表させることが可能か?という一例を提示する程度のゆるい制約で行うという意味。

実をいうと、前節で述べた「神と人」というのはヨブ記に関して不適であるように思える。対峙しているのは悪魔や3人の友人ではなくヨブただ一人であり、これこそがアイデンティティのひとつ?神と人が対峙する場合(神が1人だと仮定すると)1人か、大勢かで状況を分けることが可能だ。

このことは大勢と神の対峙、という状況を考えると明確になる。

神の言葉は預言者という1個人から流布されるものではあるものの、基本的に神と対峙するのは民族という単位になる。今のところ神との関係は集団単位で結び、個人単位でなくとも生存と安息を成立することができる。

神話自体が集団で共有される以上、「神と個人」という関係をわざわざ意識せざるをえない場面は存在するのか疑問にならない?

「私」が民族との同一を得られなくなった時?集団としての生存の道が立たれた場合個的な生存の意識が生まれ、それが神話と合わさって初めて「神と個」との対峙が生活的な意味を持つことができる。このことを強調する性質は明確にヨブに与えられている。

神と対峙するヨブ

ヨブはウツの地の者、つまりイスラエル民族でない"異邦人"である。この解釈はwikipediaにも載ってたしある程度正当なはず......

次に注目するべきは神に対峙するヨブ・それに反論する3人の友人である。この項はそれなりの分量があるものの論理構造としては単純である。

大前提「義の人に幸福を与え不義の人に不幸を与えるのが正義だ」

ヨブと友人3人の議論において論理的な間違いは存在しない、しかし両者の間には小前提の差、「ヤハウェは正義を曲げない」⇔「ヨブは義の人である」という小前提が含まれており、またこの前提は互いに矛盾する前提であるため両者が和解の道を得ることは決してない。

架橋不可能な対立に対し、ヤハウェはどのように答えるのであるか?ヨブはいわゆるヌミノーゼ体験によって回心し神に信仰する。ここで重要なのは言わずもがなヤハウェはヨブの問いに一切答えていない。宗教体験を表す一説「(ヨブの)耳で聞く⇔目で見る」の対比

このようにヤハウェは問いと答えの地平をずらすことで神の不信における問題を解決してしまったが、我々には不満の残る内容であるし笹澤豊いわくエルンスト・ブロッホヨブ記に対して同様の指摘をしているようだ。実力のある人は確認してみてほしい

ここで「問いと答えの地平をずらすこと」は道徳の本質である可能性を読み取ることができる。そのことはのちの文に書かれていて、そこではヤハウェはヨブの友人らを指して「お前らはヨブのように正しいことを言わなかった」と糾弾している。

ヨブの友人が指摘できず、ヨブのみが指摘できた真実とはなにか?

ヨブ記の作者は大前提である「義の人に幸福を与え不義の人に不幸を与える」という応報主義を否定しようとしているのでは

そして物語は最初の場面、神と悪魔の会話に回帰して考察がなされる。ヨブは応報がなくても信仰を保つことができるのか?(もしくは、信仰は応報なしに成立しなければいけないものなのか?)

応報主義+幸福願望とヤハウェの対立

ここでは、イスラエル民族の分解という事態に対して神義論を再構築しヤハウェを擁護することができた。しかしその代わりに、ヤハウェを守るために我々が快・不快をいけにえに捧げてしまっているのだ。民族としての一体感を擁護したのだ。

応報として物質的な充足ではなく精神的な充足を与えられた。ただしヨブ記はさらにラディカルなものであるはずであり、精神的にとはいえ応報主義さを否めない。精神的な応報さえ無くしそれでも信仰を擁護することこそ、じごふざの題材の一つとなっている。

 

ブドウは保たれた。だが我々は腹を膨らせねば生きていけない。

端的に言うと、「応報主義+幸福願望」と「ヤハウェの存続」は対立している

これはヨブ記だけでなくイエスの教えによってさらに深化し、物質より精神的な充足を求めるイエスの願望は、精神的な部分以外での願望(幸福願望)と衝突しているのだ。両者の矛盾、ではなく、むしろ小前提の対立?により生じた矛盾に当時のユダヤ人界隈が嫌悪感を覚えるのは当然の帰結だろう。

この際言ってしまうが道徳と倫理の大きな違いの一つは「道徳は破る状態を想像することができること」だ。倫理的な議論は「道徳を守る」ことを内面化しているのは指摘するべきだ。内面化していることに自分は反対する意見はいまのところ無いし、みんなよく頑張ってるなあと普通に感心している。ここで言いたいのは道徳の成立する条件を考える際には道徳を守らない状況を考えることが必要にならざるを得ないということだけだ

そもそもヨブ記で作者が立て直したかった神話自体が、集団の成立を基盤としている以上、人々の幸福願望(精神的や物質的を問わず)だし、最後にヨブが最高の幸福を享受する展開は必然的である。

以上の議論を通して見えてきた最も重要なことは、「じごふざでは信仰をくさす物語であるとの解釈をとってしまいたくなるが別の方法が存在することを発見した。

テッド・チャンが否定したのは信仰ではなく「地獄の否定」となる。

キリスト教を信仰するものはすべて報われるとしたら強姦魔だって天国にいくことができる。神はキリストの死によって原罪を克服したのにも関わらず地獄という概念は教会により公式なものとされてしまっている。地獄があり、しかもヨブ記で記されるように神は人々の応報主義・幸福願望を超えた崇高な目的があるとするなら、今回の物語における不協和を克服する方法は、指摘された現在の世界の矛盾を克服するためには、小前提「キリスト教的世界観を否定する」⇔「地獄を否定する」の方法をいまのところの自分は考えていて、しかもこれらの小前提はヨブと3人の友人の小前提のように真っ向から対立するものではない。「世界観の否定」とは「地獄の否定」に内包されている(地獄の否定にさらに条件を付けくわえたバリエーションの一つ)である。我々が受け入れやすい世界観はどちらであるか、むしろ欧米人において受け入れやすいほうはどちらか、明白であろう

 

結論

テッド・チャンは彼の才能を生かしすばらしい物語を作り上げた偉人である

物語はただそこにあるのみで、教訓や哲学を読み取るのは我々に着せられ、それらは作品と独立している可能性がある。

そのうえで、この話はキリスト教の否定という読みでは広すぎる。「地獄の否定」という少ない条件でも、教訓を読み取るという営みは成立することができるかもしれない。

[補足]物語を貫いている思想が馬鹿らしいと言っているわけではなく、そもそも物語から読み取る営みは作品と独立しうる可能性があると私は考えていた。先行資料がありそうだけど見つからない......
そのうえで、もし教訓を読み取りという形で読解をするなら、この話は言うて地獄の否定までじゃね?くらいの気持ちではある。

[補足]自分は予定の都合上、会に出席できずこのノートで読んだ感想をまとめたのだが、聞いてみるとなんと会においても「信仰と地獄は対立してないか?」という話題になっていたらしい。偶然にしても、考えた結論が一致してしまったの面白過ぎる

[補足]例の映画シリーズをみた友人が前から「前のとは違ってこの映画群は神と個との対峙なんだよ!!!!!」的なことを言っていて、自分はずっと何言っての思ってたけどこういうことなのね完全に理解した(たぶん違う)

 

あいたくてききたくて旅に出る(小野和子)を読んだメモ

www.pumpquakes.info

大学生活始めてからは古本屋みたいな場所が大好きになってしまったのでこの本にも出合うことになった。学際的ってほんとうに良いので3, 4年生とか、大学院生とか、そういう人向けの基礎ゼミ開催してくれ~~~!!!て最近なります。

議論は対面でないと本当に難しいとも感じてますね

nitokonasu.hatenablog.comつまりこの記事の続編のようなもの

この本は「宮城県の民話採訪とエピソード集」なんですけど、正直言ってここ1年読んだ本の中でずっと印象に残っており最も優れてる本で、

コロナ渦でいろいろSF読んできて文字渦とかSREとかいろいろ良い本はあったけど、結局この本が一番印象に残ってる。

ある人(Vtuberや配信者ではない)が配信で言ってたんですけど、物語(漫画や映画など媒体に限らず)たまにフィクションを超えそうになって異様な雰囲気になる作品っていうのがあるんですよね。配信でその方は例として「ファイアパンチ」っていう名前の漫画を挙げていたけど、個人的には映画版の「青い春」もそう。

フィクションのリアルって現実とつながってることじゃない!みたいないろいろ良い議論があるけどそれをすっ飛ばして(申し訳ないけど)そういうのってありますよね???あるんですよ

 

昔、私たちはインターネットに残る情報は永久に消すことができないと教わってきて、それを信じてきたけどどんどん有用な記録が消えてます!みたいな言説はもはやみんな共有してて、例えば掲示板のコラとかもそうなんだけど、この本を読む限り民話はむしろコピペに近い。後で述べるけど「強靭さ」がある。

紹介されるエピソードや、集落の人々が語る物語はコピペというよりコラ画像とか偶然うまくいった場末のやり取りとかに近い気がする。話だけきくとガルシアマルケス百年の孤独みたいで、つまり話と個人的な体験をわけて論じることができなくなってる。

これはよく考えると本当におかしいことなんですよ。誰が語っても誰が演じてもモノを語ることはできるんですよ。一般的で、つまり強靭だから後世に残せる。でも後世に残らない物語ってあるじゃないですか?身内がドジをした笑い話みたいな。著者は実際、語り手による話の多くは全国的に話されている昔話の改変、つまり元ネタが同定できるって感じのことを書いてた?はずなんですけど、著者が話を聞いた対象、つまり集落の農村でひっそりとくらす人々たちはあくまでそれを「ほんとうのはなしなんだよ」と念を押して話そうとする。

小野和子さんが訪ねた方々はいわゆる語り部のような人ではなくて、子供の頃に集まって聞いた語り部の記憶は持ってるけど、いままであまり語らなかった人たち。ずっと語らなず苦労を中に閉じ込めた人の語るお話は広く伝わる形の民話と比べて物語としていびつな形をしていて、一層際立つ。一般性と個人性が奇妙に混ざり合い、「その人が語る」ものとしての肉がついてくる

例えばスポーツ選手は練習しないと試合でのすばらしいパフォーマンスを維持でいないし、漫画かも絵の練習は欠かせない。論文を発表するには探求のための多くの時間とノートが必要になる。個人においても、筆者によると『「物言わぬ世界」があり、さらに「尽きない苦労話の世界」があり、その上に咲く花のようにして、「民話の世界」がこの世にあるというのか』って述べてて、今このブログで読んでもなんとも思わないんだけど、半分くらいこの本を読んだ後に来る文として本当につよい

ずっと語らなず苦労を中に閉じ込めた人の語るお話は広く伝わる形の民話と比べて物語としていびつな形をしていて、一層際立つ。一般性と個人性が奇妙に混ざり合い、「その人が語る」ものとしての肉がついてくる

語り部たちは「これはほんとうのはなしなんだよ」と述べて語りだす人がおり、実際にそれは本当の話なのである。近くの集落の出来事、昔の出来事の個人のエピソードが実際に一般的な民話のようになっている。すごくない?物語って本来は個人に付随した話から来てたんだ!職場で働いたり学生生活を送ったりしてるとき、噂話に尾ひれがつくことがある(休憩中ヤフーでスポーツを見てたら広告がえっちすぎるのを上司にみられて、いつのまにか休憩中にエロサイトをみてることにされそうになったことがある)

彼らは物を語るとき、「ほんとうに体験したことだからこそ価値がある」と確信している。

すこしえっちでToらぶるチックな民話、現代の民話の神隠しは北朝鮮の拉致として発見された話、そして多くの民話に共通する「年を取り子供のいない老夫婦が報われる話」

小説や漫画への感想を読むとき、「その感想を書いた人の個人的なエピソード」ほど私にとって気持ち悪く、心惹かれるものはない。むしろ私事がない感想ほどつまらないものはないと思う。一般的なことは多くの物事の共通事項で、つまり主従逆転だが類似するものはたくさんあって、また並なものの多くはつまらない。抽象的なものを面白くするには本当にむずかしい!私は他人の視点に立つことはできないのでより一層他人の立場での話には心惹かれる。

対してこの本の最終章、今まで語られる側だった作者が今度は夫から伝えられたお話を童話として書き上げる章はいままでの章と比べて異様な雰囲気を持っている。この表現は正確でない。生活と物語が融和しており、一般的な異様さをもつ今までの章と比べて最終章の作者による童話はあまりにもよくできた童話であり、一般的で、語り部の存在(マジックリアリズムのように個人の体験と物語の境界が消失している状態)がなくとも成立することが可能な強靭さをもっている。

しかしむしろ、最終章が蛇足であるからこそこの本はさらに強い構造を獲得することができている。彼らのケの物語にすっかり入り込んでしまった読者は最終章の強靭な童話で現実の我々のケに戻ることができ、この感覚に関しては読んだ人でないとうまく理解することができないので読んでほしい。この本についての感想や、1週目でくみ取れなかった部分もほかの人と共有したくてたまらなくなるな

SF研ってこういうのもOKですかね?川内と星陵にちかい本屋(古本屋?)に並んでるんで読書会やりたすぎる

 

 

書いてて思い出したけど、異様さはエモとはちょっと違うニュアンスで自分は言ってるつもり。ええっ……みたいな

リハビリに専念しつづけている 以下雑記 ... - 藻塩

この記事の「ええっ……」に近い気がする。

最近体験したコンテンツ

 C.H.Haskins「大学の起源」
別の本を借りようとしたら、隣に「大学特集!」みたいな感じで並んでいたので手にとった本
以前読んだ文系理系の文庫と比べると内容は13世紀に限り、また内容も内包しているのでこの本を読む意味は殆どに人にとって存在しないけど
特筆すべき特徴は「学生の悪口」
「学生たちの心は泥沼に浸かり、もっぱら司教座聖堂参事会員としての収入と世俗的なことがら、また自分の欲望をいかに満たすかということに向けられている」
「訴訟好きで喧嘩好き、彼らのいる場所に平和はなく、武器をもって歩き回り市民を攻撃し女を辱める
居眠り・居酒屋・手引書←教授のために宴会を開きなさい、父母へ現金をせびるための手紙、
学生の詩ゴリアルド詩 ちゃらんぽらんしか文を残さない。優秀な人ももちろんいる
中世も現代も変わらんよっていういつものやつ
参考文献改題では王の発布した文書。学生は想像以上に保護され特権を与えられている
少なくともこの本から先へ調べる目的がない場合、ほとんど意味をなさない本。学生の悪口の語彙がほしい人にとっては必読の書

「科学に魅せられて科学を見失う」
弦理論批判本。取材した教授たちは自分の形容する「物理学の美」について自身の経験だの便り名定のをしっかり認識してて普通に穏健的だった。章はいくつか別れているが、構成としては物語のようにだんだん深部に迫っていくわけではなく、それぞれのトピックにつて考え、著名な物理学者にインタビューし、結論は同じ
・データがぜんぜんたりない
・美は経験的感覚で、歴史のように美が必ずしもうまく行く結果を生み出したわけではない(量子論も非直感的で美しくないらしいが、うまくいってるからなあ)
結論はどれも似通っているし面白くないが、文の細部や現在の状況を話している文、各研究者へのインタビュー(レポ?)は十分面白いし、そとからだとなかなか情報を手に入れることのできない物理界隈の今について知ることが出来る点で優れている
実際自分も「ILCもつくる予定なさそうだし超対称性粒子見つからないし万物理論は後追いで入るには厳しく、それこそアインシュタインになる気概ないと無理そうだなあ」って感じになってしまった。十分影響されている
私と同い年の方々や大学1,2年の方々は是非読むと損しない本だった

デビルマン crybaby
ゴジラSPを見るためにnetflixへ契約していたので視聴した!
私は映画やアニメ、さらには小説までもそれ単体では評価対象にならないと思っておいて、むしろ二郎系ラーメンを食べるときと全く同じでその時の自分の思想や体調、時間帯、作品の鑑賞姿勢がそのまま100%それらの評価に関わらざるを得ないと思っています。よって作品を語るためには客観的な方法はなく、自分を語らなくては行けないという世界観です。よってこのアニメの感想は(少しだけ)自分を語らなくてはいけません。

自分は何事においても量をこなせる人間ではないので、(自分の声質のせいで仕方なく)物理の教科書であってもできれば1冊、学術系の本でも1冊読めばほとんどわかる、といった本をゆっくり読み込まないと勉強をすることが最近はできなくなっています。その流れで映画などの作品についても、登場人物の行動から少しでも得るものがないと耐えられません
[補足]いやいやアニメの中には意味なくだら~と垂れ流して楽しむものが(むしろ今は)多数派だろうという意見もありますが、私にとってそれはtwitchのスーパープレイの配信をみることになっています。もともと萌えアニメ系を見慣れておらず、また等速倍速にせよ自分で時間の流れを操ることのできない媒体についてはひどくストレスを抱えてしまうのでガルパンですら1話の10分で見れなくなってしまいました。ずっと自分に響く刺激があるとうれしいので最近はMADかスポーツしか見れてないですし、多分演劇も適正ありそうな気がしますが映画館・家でのアニメ・映画鑑賞は最近は本当に無理な体になってしまっています。

補足に書いたとおり飽きさせない要素があるとむしろ評価が反転し、その要素はデビルマンcrybabyで言えばラップ・エロ・デビルマンの歌、ゴジラSPであれば怪獣・有能しかおらず常にうまく行き続ける登場人物・キャラデザなどなのでしょう。そのどれもが響かない場合いわゆるnot for meで、最後の砦がシナリオなのですがネトフリアニメってビジュアルや画は他と違うものをつくっているんですけどストーリーはまったく保守的なんですよね。今回のcrybabyで言えば演出(美樹さんは汚れのない完璧聖人で厳かにお亡くなりになり、丁寧な回想をはさみながら泣き虫と煽ってた了が亡骸を片手に泣きながら天使軍団を迎え撃つシーンなんてええ……となってしまいました。

でも細かく見ていけばどのシーンのあとに対比としてこのシーンが!さっき言ったように了が泣いてアニメが終わる!タイトル回収やったあああああなど拾える小ネタはたくさんあり、立場が違うと大傑作だと主張しうることも十分理解できています。そこはヴァイオレット・エヴァーガーデンやシンエヴァで感動できるかできないかで自分は大別できると考えていて、逆にこれら2作品もしくは映画で言えばレオンが好きなひとはcrybabyも好きだろうと私は確信していますし、これらに引っかかる方々にはぜひ見ていただいて歓喜の感想を拝見できたらうれしいなと感じています。
その流れで原作版のデビルマンも漫画版が図書館で借りることができたため読みました。crybabyさんは想像以上に原作に沿ってたのね。メロドラマみたいな演出が合わなかったって話だと思ってたけど原作もファイアパンチ見た時ほどの驚きはなかったような気がする

原作を読んでいて一番悲しくなった場面は、牧村美樹さんが首だけになって主人公が人間でいる意義を失い、あろうことか悪魔とデビルマンとで戦争を仕掛けようとする場面でした。戦わないでくれ......
彼らは人間を失ったのになぜ戦うのか?ついさっき戦いの意味を失ったのに?意味がない!つまり、彼らは悪魔の本能である闘争心に完全に支配されていて、天使が下りてくる前に「悪魔の本能」として同士討ちをしている。赤チーム青チームみたいなものでデビル"マン"は人間への所属をもはや意味していない。彼らは間違いなく悪魔の存在なのだ。

デビルマンと合体した明は完全な悪魔になり、了は愛する人を失い、悪魔は同士討ちで大きく数を減らし、もはや天使が成すべきことは残っていない。

 

今は積んでる青騎士1,2A,2Bと民謡の本「あいたくてききたくてたびに出る」を読んでいます。後者に関しては、ここ1年SF小説をよもうと努力しいろいろ本を読みましたが小説でないこの本がここ1年読んでよかった本ベスト1位になりそうな気がするので後で感想書いて他のかたに紹介したいなという思いがあります。

できれば自分のことを言っているのに一般論のことを述べているように(読者にだけ)みえる文章にあこがれてます、最近だと木下龍也さんの短歌指南本がまさにそれで、ジャンプの編集者も「この本は漫画にも通ずる!」と語ったのを木下龍也さんのRTで拝見したので、この方は本当に言葉がうまいひとなんだなあと関心した経験があります。

終わり!!!おわりおわり

ただ人読む前の反出生主義のメモ

恐山さんの新著は反出生主義に関する話題を議論する本であり、その前に自分の考えと志向を整理するためのメモ

自分はうまく倫理道徳哲学の本を見つける術を会得していないので適当なことを言っている可能性が大

文献をたどる力がないので、むしろ公開したほうがいいだろ

だれか教えてくれ~~~

  • そもそも反出生主義って道徳実在論から来てるよね?(実際は功利計算として出生前の存在について志向しているため功利主義的)
    例えば現代においては「そもそも倫理は人と人との利害関係の交渉により生まれるものなんだから、公理にせよ直感にせよ一本の柱(真理)が倫理に存在すると考えてる時点で現実に立脚していない完全なナンセンス」的な言説を多くの人が共有しているように感じる。
    たびたびインターネットを見てると健常者シミュレータみたいな言い方で揶揄しているが、まあ健常者の方からしてみても似たようなことしてるだろうしむしろそれが社会性という物だろうからまあ気にする必要はないだろう
  • そうなるとなぜ多くの人が倫理や道徳を守っているのかというとその行動が自分にとって理があるからで、永井均さんとかが詳しく述べていたはず
  • 基本的に反出生主義は唱えている人、履行する人にとってメリットは存在しない!誰にとってもメリットのない道徳というのは自分にとって相当前代未聞だ。
  • 非存在にとってはメリットはあるだろうが、そんな道理通るだろうか?死後の世界の存在を現代科学で明らかにする的なナンセンスさを感じてしまった。

  • (ある)議論として倫理的なものを扱っている場合、出生を肯定するにせよ反出生を肯定するにせよ社会的な同意をその構成員の規範として採用するということ。
    ここ各人の自由としてよい等の話を持ち込むと議論は成立しなくなってしまう。規範の話をしているのに、最後には「その履行は各個人に任せます」はアンフェア
    →反出生主義は相対主義と両立することはできないのではないか?
  • 反出生主義をするなら、皆、必ず規範として強制しなくてはいけない(法ほど固いものでなくとも、社会的な圧としてでも強制せざるを得ない!

  • 反出生主義がほかの倫理と違い緩める余地がないのは大きな特徴だと思う(普通倫理はできる限りを要請していて、例外も(社会がそのつどつどに応じて)認めてくれる可能性があるような気がする。
  • 反出生主義の場合は子を作ってはいけないし、反出生のために他人へ子を作らせないのは緩和の余地ない倫理

  • その辺ってどんな議論がされていたんだろう?読んだ限りだとだとメリットの話をしていたのは全くなくて、哲学の主義の違いでバトルするみたいな専門的な扱いについて議論していて自分はよく理解できたわけではなかった。知の欺瞞ほどではないが前提の文献は初学者にとっては割と多い気がする。
  • すべて教えてくれる授業か友人ほしいな……

生協が開いていないせいで最短で月曜まで読むのはお預けになりそう。この辺の話を深めて話してくれるとうれしいなっ!って思いながら読むのを楽しみにしています

すばらしい本屋・古本屋の定義と仙台の本屋

 

私のかんがえる「すばらしい本屋」について

仙台にある本屋について紹介する前に、まずわたしが考える優れた本屋について紹介する必要がある。検索すれば地元の人じゃなくてもありとあらゆるジャンルの優れた店(本屋に限らず!)を知ることが出来る現在においても、なぜこの記事を書く必要があるのか説明しなくてはいけない

普通の人が本屋をはしごすることはほぼ無い。なぜならどの本屋に行っても並んでいて押されている本は同じものだからだ。規模の大小は関係ない。本屋ごとの特色は存在せず、ジュンク堂に言っても古くからの町の本屋に行っても、ド田舎の本屋も新宿の本屋も変わらず、本の蔵書の量、つまり取り寄せが必要か必要じゃないか程度の違いしか無い

本を読まない人にとって、本屋で新たな知見を得ようとするのはさらに難しい。例えば図書館に行けば読みきれないほどの大量の本があるが、実際に手に取るのは知ってる著者の本だけだ。全国の本屋で同様に押されている本以外は、普通の本屋でも状況は同じだ。本当に必要な人に本が届くことは決して無い

小学生のころはそんなことなかった。図書室は小学校程度の規模で、棚に並んでいる本に外れはなく、適当に手にとった本はすべてすばらしい読書体験を手にしてくれる。現在の自分が、中学生の頃読んだ「No.6」という本に出会った体験のように、良質な出会いができる可能性はほぼないと言っていいと思う。

したがって大人になった本好きが新たな著者や読書体験を探そうとすると、趣味のあうブログ主を探し出しその人が紹介する本を読む・好きな著者の勧める本を買う、くらいの手段しか残されていない

[補足]本を数年に何冊か読む程度の一般の人はもちろん全国の本屋で表紙を向けた状態で積まれている本のみを読む。インターネットにおける小説投稿サイトでも同様で、digる人はマニア扱いで多くの人はランキング順に小説を読んでいる。ジャンルは変わるがニコニコもそうだ

学校の図書室のように、選べる種類は少なくてもそのどれもが自分では見つけられない本であり、かつ質の高い本である、という状況を考えると6畳程度の広さしか無い町の古本屋がもっとも優れていると私は考えている

具体例としては

古本屋の店主に与えられたただひとつの仕事は棚の品質の維持だ。客が好き勝手に本を売っていくと本棚の品質は悪化し、本は積まれ、背表紙は見えなくなる。2017年のサッカーゲームが新品で並んでる棚ほど見苦しいものはない。上にあげた3つの本屋は棚の品質管理が洗練されており、かつ狭い。

神保町は結局、場所の近い「一昔前の秋葉原」と同じで「既に必要な人が行く」街だ。古本の町と呼ばれているが初見の人・目的のないひとは絶対に楽しむことはできないと断言できる。

結局、最もすばらしい本屋とは吉祥寺周辺の地帯にある、地元の人が毎週利用するための狭い本屋であるとわたしは考えている。

[補足]結局「店主のセンスと勤勉さ」が重要な要素であると言っているものの、ブックマンション(これも同様に吉祥寺に存在する!)はその属人的な要素を「店主を増やす」ことで解決している。興味がある人は是非調べて訪問してほしい。ブックマンションの本質は本というより人とコミュニティであり、それは私の称賛する本屋の要素の終点の一つであると思う。

仙台に存在する、誇るべき本屋1選

そういうわけで、最後に仙台に存在する素晴らしい本屋を一つ紹介しこの記事の締めとする。

kyoku-sen.com

この本屋は本当に行きにくい!ことで少し有名。古民家を用いたお店で、建築基準法に明らかに適合していない場所なので外界と隔たれており、トトロのような場所だ。古本だけでなく東北的な民俗本、映画や芸術論、短歌、現代思想等の洗練された本がおいてあり、フェミニズムも多少あったはずだ。店舗の広さの割に本の数は(古本屋の棚配列の常識と考えて)とても少なく、場の雰囲気は良質に保たれている。仙台にはカフェを併設する古本屋が多いが、ここもカウンター形式でカフェが併設されている。コーヒーだけでなくビール等もあり、2人で行き議論や雑談をするには最適の場所だろう。

仙台駅からやたらと遠い場所ではあるが、もしこの記事の読者が東北大に行く機会があれば連れといっしょに行ってみると良いと思う。もしあなたやその連れが短歌や思想に興味をもっているひとならなおさらだ。本は結局コミュニケーションの元ととして強力であり、またそのような時代だと思う。

忘れ去られたベストセラーのえっちな奇書をみつけた

www.amazon.co.jp

現代の日本においては大なり小なりどこの本屋に行っても並んでいる本の種類が変わることはない。よって私は普段読まないような知識を得るために地域に根ざした古本屋へ行って本を探すことを趣味としている。

そんな中、見つけたのが上の本だ。

ja.wikipedia.org

明らかに奇書の香りがプンプンするのでインターネットで調べたところ、私たちの親世代の頃はよく読まれた本らしく(ほんまか?)、一方amazonや他の通販サイトを見ても新品の文庫は見つけることが出来なかった。

 えろす福音書、で検索してもこんなツイートしか見つからなかった。そんなことある?

www.weblio.jp

weblio辞書で調べたところwikipediaよりも詳細な情報が出てきた。カルピスの宣伝部!?完全に精(ry

そういうわけで、最近はこの本を休み休み読むことに時間を注いでいた。あまりに無駄な時間だ。ちなみにイービーンズの古本屋で入手し、著者の他作品も同様に並んでいたので興味を持った人は是非買ってみてほしい。

まずフロイトの勉強から

上のウィキにも書いてあるし、そもそも本書の著者欄にもあるのだが、彼はフロイトから大きな影響を受けている。
フロイト自体はエディプスコンプレックスなど教科書に出てくるようなワードを作り出し、精神分析の始祖的存在として知られている。夢診断でやたらと性に絡めてしまう人、という認識で通じる人も多いはずだ。

そんなフロイトさんだがまあ賛否両論の多いこと!

そもそも彼の理論は生前から批判が多いし、また現代の自分からみると「もはや精神疾患は薬で解決し脳内の物質で感情が左右されると考えるような時代なのだから、精神分析ってどんなアレなんだ?」と思ってしまっているため、偏見と向き合うためにまずフロイトを勉強するところから始めた。

online.univ.coop

実際、えろす福音書を読む時間よりフロイト入門を読む時間の方がはるかにかかったという裏話

正直言うと、私はフロイトに対して全くがっかりしてしまった。結局当時からの批判と同じで、フロイトの研究は彼のアイデアばかりでそれを証明するような実験結果や科学的な分析を見つけることが出来なかった。医学というより思想だ。そもそも現代は鬱や精神病患者には薬が出される時代であり、やはり本書を読んでも精神分析の有用性はよくわからなかった。

「入門書だけ読んでそれは言いすぎだろ!」という思いもあるが、私的には人文系のように原著を読みなさい派ではなく、理論は誰が述べても同じになるべきだ派である。とはいえその立場でも本来は教科書は2冊読むべきではある。ただ労力が足りず一冊で私は済ませてしまったので気になる人は色々読んでほしい

この時点でもはやえろす福音書への熱は、全く薄れている状態だった。

意外と面白い?

ところが本書に関しては想像よりも遥かに面白い!その理由はいくつかある。

  • 古びていない文体
  • むしろ新しさを感じさせるガバ推理
  • 知識欲を刺激する引用の数々

ギリシャ神話から江戸時代の日本で流通していた本や短歌、(当時の)世界各国の性に関する臨床的研究まで至る筆者の豊富な「性知識」には全く驚かされるばかりで、しかも文がうまい!宣伝に従事していた経験が存分に生かされている(ような気がする)。

本の論理はフロイト的発想によるもので「ん?」となる部分も当然あるが、インターネットの掲示板に貼れば十分レスバトルできそうな切れ味ある性の文書が胃もたれするほど続くので、そりゃベストセラーで評判になるよな~と妙な納得感を覚えた。

もっとも引用元の記述がある部分とない部分があり、論じられている内容がどのくらい本当か判別することはとてもむずかしい。およそ70年前に発表されたような本であるから、鵜呑みにすることはできないものの様々なアイデアを得ることができるだろう。

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最後に目次を紹介する。もうここからカロリーが高い。

時代の流れで忘れ去られた文化人

今となってはスマホから映像や小説、漫画まで様々な形でエロに出会うことのできる時代だが、「これこそ正しい性教育!」のように主張し、かつインテリの間で誰もが知るような文化人は存在しないように思われる。そんな中でも、そもそもフロイトが時代遅れという致命的欠陥はあるものの、文章や面白さは私からみるとあまり劣化していないように思われる。完全に忘れ去られてしまった人ではあるが、いつか再発見されたらいいなとは思っているので古本屋で見かけたときはぜひ手にとって見てほしい。今の時代、怪文書は一周回って最もおしゃれなトレンドであるからだ。

 

 

[追記]

https://web.archive.org/web/20200923231822/https://matome.naver.jp/odai/2141281491922129201

naverまとめはサ終してしまったが、幸運にもwaybackmachineから高橋鐵のまとめを見つけ出すことができた。ただ2ページ目、3ページ目へのボタンが壊れているため、他ページのアーカイブを確認するにはURLの後ろに「?page=2」このように入力する必要がある。

3ページ目の最後の文章、もはや資料もツイートも残っておらずツイート主は凍結されているため確認は出来ないが、もしほんとうに高橋鐵が発した言葉だとしたらむなしい。彼の活動の影響は現代に残っていないのだろうか?

少なくとも現代において、高橋鐵は完全に忘れ去られている

 

『世界の「住所」の物語』読んだ

私は街を歩くのがすきだ。とはいえ美味しい飲食店や個性的な店に惹かれるのは二次的な理由である。お気に入りの古本屋を見つけても買わずに出ていく日が多々ある。
リアルでもインターネットでもそうだが、人が集まって内輪で個性的な文化を作っている、という光景自体に強く興味を持ってしまうし、なんなら物理学部に入学しようと考えたのもそれが理由になってしまっていた。

そういうわけで、帰省するときはショッピングでなく街歩き自体を目的にして遊ぶし、仙台の路地裏を自転車で漕ぐのが春休み中の趣味と化している。とくに東北学院大が移転してくる五橋は刺激的だ。ボドゲショップが有り、美味しいラーメン屋が路地に沿って数多く展開している。

このようなモチベを持っているときに見つけたのがこの本だ。

住所とは?

現代はグーグルマップがあるため機会は少なくなったが、私達が道案内をする時、どのように人に教えるだろうか?
「ディズスト(ディズニーストア前)ってどこ?」と聞かれて「宮城県仙台市青葉区一番町4丁目2−10です」と答えることのできる人はいるはずもなく、「駅でて右に曲がって直進」もしくは「ZARAの角を右に曲がって歩けばすぐ」のように 目印 を用いて案内を行っている。
本書によると、実際に古代ローマでは公文書でさえ住所はなかった。道に関する微妙なニュアンスの違いの豊富な語彙があり、有力者は立派な建物を建てることで 目印 として自身の権力を誇示できた。

本書によると、現在のように家の一つ一つに番号が割り振られたのは近代国家の形成と深く関わっているとの記述が、自分にとってとてもおもしろかった。現代のように中央政治機構が地方の村々の人民一人ひとりを管理できるようになったのは、よく考えたらすごくない?本書では徴兵制と結びついて始まった歴史だったり、「そもそも人に番号をつけるのはどうなんだ!」という当時の人民の話、すごくよくないですか?ここお気に入りです

そもそも欧米では住所には通りの名前が付き、日本のように道は区画と区画の間の空間ではない。しかも道に歴史上の人物の名前をつけがちと来たらそれはもう大変なことになるし、この本では人が争いまくる。それぞれの住所の歴史においてキーパーソンとなった人物の短編が挿入され、この本の副題の通り「通りに刻まれた起源・政治・人種・階層の歴史」についての大河が展開される。ここもすき

結論として普通に人に勧めたい本だった。著者のディアドラマスクさんは新聞で通りの名前についての記事を執筆しているらしく、彼女の経験に基づいた体験や思想も反映されている。歴史や人物、彼女の私的な体験等がごちゃまぜになっているがとても読みやすい。また、翻訳を行った神谷栞里さんのあとがきも本書で読んでよかった部分の一つだ。読み終わって検索したところこの本が初めての翻訳本っぽいことに驚いたし、楽しみな翻訳家をはじめて見つけた気分になりうれしかった