あいたくてききたくて旅に出る(小野和子)を読んだメモ

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大学生活始めてからは古本屋みたいな場所が大好きになってしまったのでこの本にも出合うことになった。学際的ってほんとうに良いので3, 4年生とか、大学院生とか、そういう人向けの基礎ゼミ開催してくれ~~~!!!て最近なります。

議論は対面でないと本当に難しいとも感じてますね

nitokonasu.hatenablog.comつまりこの記事の続編のようなもの

この本は「宮城県の民話採訪とエピソード集」なんですけど、正直言ってここ1年読んだ本の中でずっと印象に残っており最も優れてる本で、

コロナ渦でいろいろSF読んできて文字渦とかSREとかいろいろ良い本はあったけど、結局この本が一番印象に残ってる。

ある人(Vtuberや配信者ではない)が配信で言ってたんですけど、物語(漫画や映画など媒体に限らず)たまにフィクションを超えそうになって異様な雰囲気になる作品っていうのがあるんですよね。配信でその方は例として「ファイアパンチ」っていう名前の漫画を挙げていたけど、個人的には映画版の「青い春」もそう。

フィクションのリアルって現実とつながってることじゃない!みたいないろいろ良い議論があるけどそれをすっ飛ばして(申し訳ないけど)そういうのってありますよね???あるんですよ

 

昔、私たちはインターネットに残る情報は永久に消すことができないと教わってきて、それを信じてきたけどどんどん有用な記録が消えてます!みたいな言説はもはやみんな共有してて、例えば掲示板のコラとかもそうなんだけど、この本を読む限り民話はむしろコピペに近い。後で述べるけど「強靭さ」がある。

紹介されるエピソードや、集落の人々が語る物語はコピペというよりコラ画像とか偶然うまくいった場末のやり取りとかに近い気がする。話だけきくとガルシアマルケス百年の孤独みたいで、つまり話と個人的な体験をわけて論じることができなくなってる。

これはよく考えると本当におかしいことなんですよ。誰が語っても誰が演じてもモノを語ることはできるんですよ。一般的で、つまり強靭だから後世に残せる。でも後世に残らない物語ってあるじゃないですか?身内がドジをした笑い話みたいな。著者は実際、語り手による話の多くは全国的に話されている昔話の改変、つまり元ネタが同定できるって感じのことを書いてた?はずなんですけど、著者が話を聞いた対象、つまり集落の農村でひっそりとくらす人々たちはあくまでそれを「ほんとうのはなしなんだよ」と念を押して話そうとする。

小野和子さんが訪ねた方々はいわゆる語り部のような人ではなくて、子供の頃に集まって聞いた語り部の記憶は持ってるけど、いままであまり語らなかった人たち。ずっと語らなず苦労を中に閉じ込めた人の語るお話は広く伝わる形の民話と比べて物語としていびつな形をしていて、一層際立つ。一般性と個人性が奇妙に混ざり合い、「その人が語る」ものとしての肉がついてくる

例えばスポーツ選手は練習しないと試合でのすばらしいパフォーマンスを維持でいないし、漫画かも絵の練習は欠かせない。論文を発表するには探求のための多くの時間とノートが必要になる。個人においても、筆者によると『「物言わぬ世界」があり、さらに「尽きない苦労話の世界」があり、その上に咲く花のようにして、「民話の世界」がこの世にあるというのか』って述べてて、今このブログで読んでもなんとも思わないんだけど、半分くらいこの本を読んだ後に来る文として本当につよい

ずっと語らなず苦労を中に閉じ込めた人の語るお話は広く伝わる形の民話と比べて物語としていびつな形をしていて、一層際立つ。一般性と個人性が奇妙に混ざり合い、「その人が語る」ものとしての肉がついてくる

語り部たちは「これはほんとうのはなしなんだよ」と述べて語りだす人がおり、実際にそれは本当の話なのである。近くの集落の出来事、昔の出来事の個人のエピソードが実際に一般的な民話のようになっている。すごくない?物語って本来は個人に付随した話から来てたんだ!職場で働いたり学生生活を送ったりしてるとき、噂話に尾ひれがつくことがある(休憩中ヤフーでスポーツを見てたら広告がえっちすぎるのを上司にみられて、いつのまにか休憩中にエロサイトをみてることにされそうになったことがある)

彼らは物を語るとき、「ほんとうに体験したことだからこそ価値がある」と確信している。

すこしえっちでToらぶるチックな民話、現代の民話の神隠しは北朝鮮の拉致として発見された話、そして多くの民話に共通する「年を取り子供のいない老夫婦が報われる話」

小説や漫画への感想を読むとき、「その感想を書いた人の個人的なエピソード」ほど私にとって気持ち悪く、心惹かれるものはない。むしろ私事がない感想ほどつまらないものはないと思う。一般的なことは多くの物事の共通事項で、つまり主従逆転だが類似するものはたくさんあって、また並なものの多くはつまらない。抽象的なものを面白くするには本当にむずかしい!私は他人の視点に立つことはできないのでより一層他人の立場での話には心惹かれる。

対してこの本の最終章、今まで語られる側だった作者が今度は夫から伝えられたお話を童話として書き上げる章はいままでの章と比べて異様な雰囲気を持っている。この表現は正確でない。生活と物語が融和しており、一般的な異様さをもつ今までの章と比べて最終章の作者による童話はあまりにもよくできた童話であり、一般的で、語り部の存在(マジックリアリズムのように個人の体験と物語の境界が消失している状態)がなくとも成立することが可能な強靭さをもっている。

しかしむしろ、最終章が蛇足であるからこそこの本はさらに強い構造を獲得することができている。彼らのケの物語にすっかり入り込んでしまった読者は最終章の強靭な童話で現実の我々のケに戻ることができ、この感覚に関しては読んだ人でないとうまく理解することができないので読んでほしい。この本についての感想や、1週目でくみ取れなかった部分もほかの人と共有したくてたまらなくなるな

SF研ってこういうのもOKですかね?川内と星陵にちかい本屋(古本屋?)に並んでるんで読書会やりたすぎる

 

 

書いてて思い出したけど、異様さはエモとはちょっと違うニュアンスで自分は言ってるつもり。ええっ……みたいな

リハビリに専念しつづけている 以下雑記 ... - 藻塩

この記事の「ええっ……」に近い気がする。