すばらしい本屋・古本屋の定義と仙台の本屋

 

私のかんがえる「すばらしい本屋」について

仙台にある本屋について紹介する前に、まずわたしが考える優れた本屋について紹介する必要がある。検索すれば地元の人じゃなくてもありとあらゆるジャンルの優れた店(本屋に限らず!)を知ることが出来る現在においても、なぜこの記事を書く必要があるのか説明しなくてはいけない

普通の人が本屋をはしごすることはほぼ無い。なぜならどの本屋に行っても並んでいて押されている本は同じものだからだ。規模の大小は関係ない。本屋ごとの特色は存在せず、ジュンク堂に言っても古くからの町の本屋に行っても、ド田舎の本屋も新宿の本屋も変わらず、本の蔵書の量、つまり取り寄せが必要か必要じゃないか程度の違いしか無い

本を読まない人にとって、本屋で新たな知見を得ようとするのはさらに難しい。例えば図書館に行けば読みきれないほどの大量の本があるが、実際に手に取るのは知ってる著者の本だけだ。全国の本屋で同様に押されている本以外は、普通の本屋でも状況は同じだ。本当に必要な人に本が届くことは決して無い

小学生のころはそんなことなかった。図書室は小学校程度の規模で、棚に並んでいる本に外れはなく、適当に手にとった本はすべてすばらしい読書体験を手にしてくれる。現在の自分が、中学生の頃読んだ「No.6」という本に出会った体験のように、良質な出会いができる可能性はほぼないと言っていいと思う。

したがって大人になった本好きが新たな著者や読書体験を探そうとすると、趣味のあうブログ主を探し出しその人が紹介する本を読む・好きな著者の勧める本を買う、くらいの手段しか残されていない

[補足]本を数年に何冊か読む程度の一般の人はもちろん全国の本屋で表紙を向けた状態で積まれている本のみを読む。インターネットにおける小説投稿サイトでも同様で、digる人はマニア扱いで多くの人はランキング順に小説を読んでいる。ジャンルは変わるがニコニコもそうだ

学校の図書室のように、選べる種類は少なくてもそのどれもが自分では見つけられない本であり、かつ質の高い本である、という状況を考えると6畳程度の広さしか無い町の古本屋がもっとも優れていると私は考えている

具体例としては

古本屋の店主に与えられたただひとつの仕事は棚の品質の維持だ。客が好き勝手に本を売っていくと本棚の品質は悪化し、本は積まれ、背表紙は見えなくなる。2017年のサッカーゲームが新品で並んでる棚ほど見苦しいものはない。上にあげた3つの本屋は棚の品質管理が洗練されており、かつ狭い。

神保町は結局、場所の近い「一昔前の秋葉原」と同じで「既に必要な人が行く」街だ。古本の町と呼ばれているが初見の人・目的のないひとは絶対に楽しむことはできないと断言できる。

結局、最もすばらしい本屋とは吉祥寺周辺の地帯にある、地元の人が毎週利用するための狭い本屋であるとわたしは考えている。

[補足]結局「店主のセンスと勤勉さ」が重要な要素であると言っているものの、ブックマンション(これも同様に吉祥寺に存在する!)はその属人的な要素を「店主を増やす」ことで解決している。興味がある人は是非調べて訪問してほしい。ブックマンションの本質は本というより人とコミュニティであり、それは私の称賛する本屋の要素の終点の一つであると思う。

仙台に存在する、誇るべき本屋1選

そういうわけで、最後に仙台に存在する素晴らしい本屋を一つ紹介しこの記事の締めとする。

kyoku-sen.com

この本屋は本当に行きにくい!ことで少し有名。古民家を用いたお店で、建築基準法に明らかに適合していない場所なので外界と隔たれており、トトロのような場所だ。古本だけでなく東北的な民俗本、映画や芸術論、短歌、現代思想等の洗練された本がおいてあり、フェミニズムも多少あったはずだ。店舗の広さの割に本の数は(古本屋の棚配列の常識と考えて)とても少なく、場の雰囲気は良質に保たれている。仙台にはカフェを併設する古本屋が多いが、ここもカウンター形式でカフェが併設されている。コーヒーだけでなくビール等もあり、2人で行き議論や雑談をするには最適の場所だろう。

仙台駅からやたらと遠い場所ではあるが、もしこの記事の読者が東北大に行く機会があれば連れといっしょに行ってみると良いと思う。もしあなたやその連れが短歌や思想に興味をもっているひとならなおさらだ。本は結局コミュニケーションの元ととして強力であり、またそのような時代だと思う。