ノート:地獄とは神の不在なり(テッド・チャン)読んだ!

知り合いに見せる文章なので正確性は一切ない(チキンすぎる前置きだが仕方ない)
このノートは笹澤豊さんの「道徳とその外部」という本に依拠する部分でほぼ占めている。誤解は自分の責任です。

すでに指摘されていたが、地獄とは神の不在なり(以下Hell Is the Absence of Godで"じごふざ!"とする)(頭字語として正しいか知らん)はヨブ記の影響を大きく受けた物語である。物語のモチーフや読解を通して面白い結論を導きたい場合、ヨブ記の特徴に注目するのは一つの手だろう。

ヨブ記における対峙

ギリシャ神話や日本神話のように「神と神」でもなく、他の黙示録に見られるように中心的な話題が「人と人」もしくは「人と神の子」であるのに対しヨブ記は主要な人物として3人の友人が出てくるものの「神と人」の物語だ。集団としての規範、神の子のすばらしさ、我々のあずかり知らぬ神々の物語と比べて「神と人」との物語は、いったい何を代表させることができるのか

[補足]何を代表しているのか、までは断定できないので何を代表させることが可能か?という一例を提示する程度のゆるい制約で行うという意味。

実をいうと、前節で述べた「神と人」というのはヨブ記に関して不適であるように思える。対峙しているのは悪魔や3人の友人ではなくヨブただ一人であり、これこそがアイデンティティのひとつ?神と人が対峙する場合(神が1人だと仮定すると)1人か、大勢かで状況を分けることが可能だ。

このことは大勢と神の対峙、という状況を考えると明確になる。

神の言葉は預言者という1個人から流布されるものではあるものの、基本的に神と対峙するのは民族という単位になる。今のところ神との関係は集団単位で結び、個人単位でなくとも生存と安息を成立することができる。

神話自体が集団で共有される以上、「神と個人」という関係をわざわざ意識せざるをえない場面は存在するのか疑問にならない?

「私」が民族との同一を得られなくなった時?集団としての生存の道が立たれた場合個的な生存の意識が生まれ、それが神話と合わさって初めて「神と個」との対峙が生活的な意味を持つことができる。このことを強調する性質は明確にヨブに与えられている。

神と対峙するヨブ

ヨブはウツの地の者、つまりイスラエル民族でない"異邦人"である。この解釈はwikipediaにも載ってたしある程度正当なはず......

次に注目するべきは神に対峙するヨブ・それに反論する3人の友人である。この項はそれなりの分量があるものの論理構造としては単純である。

大前提「義の人に幸福を与え不義の人に不幸を与えるのが正義だ」

ヨブと友人3人の議論において論理的な間違いは存在しない、しかし両者の間には小前提の差、「ヤハウェは正義を曲げない」⇔「ヨブは義の人である」という小前提が含まれており、またこの前提は互いに矛盾する前提であるため両者が和解の道を得ることは決してない。

架橋不可能な対立に対し、ヤハウェはどのように答えるのであるか?ヨブはいわゆるヌミノーゼ体験によって回心し神に信仰する。ここで重要なのは言わずもがなヤハウェはヨブの問いに一切答えていない。宗教体験を表す一説「(ヨブの)耳で聞く⇔目で見る」の対比

このようにヤハウェは問いと答えの地平をずらすことで神の不信における問題を解決してしまったが、我々には不満の残る内容であるし笹澤豊いわくエルンスト・ブロッホヨブ記に対して同様の指摘をしているようだ。実力のある人は確認してみてほしい

ここで「問いと答えの地平をずらすこと」は道徳の本質である可能性を読み取ることができる。そのことはのちの文に書かれていて、そこではヤハウェはヨブの友人らを指して「お前らはヨブのように正しいことを言わなかった」と糾弾している。

ヨブの友人が指摘できず、ヨブのみが指摘できた真実とはなにか?

ヨブ記の作者は大前提である「義の人に幸福を与え不義の人に不幸を与える」という応報主義を否定しようとしているのでは

そして物語は最初の場面、神と悪魔の会話に回帰して考察がなされる。ヨブは応報がなくても信仰を保つことができるのか?(もしくは、信仰は応報なしに成立しなければいけないものなのか?)

応報主義+幸福願望とヤハウェの対立

ここでは、イスラエル民族の分解という事態に対して神義論を再構築しヤハウェを擁護することができた。しかしその代わりに、ヤハウェを守るために我々が快・不快をいけにえに捧げてしまっているのだ。民族としての一体感を擁護したのだ。

応報として物質的な充足ではなく精神的な充足を与えられた。ただしヨブ記はさらにラディカルなものであるはずであり、精神的にとはいえ応報主義さを否めない。精神的な応報さえ無くしそれでも信仰を擁護することこそ、じごふざの題材の一つとなっている。

 

ブドウは保たれた。だが我々は腹を膨らせねば生きていけない。

端的に言うと、「応報主義+幸福願望」と「ヤハウェの存続」は対立している

これはヨブ記だけでなくイエスの教えによってさらに深化し、物質より精神的な充足を求めるイエスの願望は、精神的な部分以外での願望(幸福願望)と衝突しているのだ。両者の矛盾、ではなく、むしろ小前提の対立?により生じた矛盾に当時のユダヤ人界隈が嫌悪感を覚えるのは当然の帰結だろう。

この際言ってしまうが道徳と倫理の大きな違いの一つは「道徳は破る状態を想像することができること」だ。倫理的な議論は「道徳を守る」ことを内面化しているのは指摘するべきだ。内面化していることに自分は反対する意見はいまのところ無いし、みんなよく頑張ってるなあと普通に感心している。ここで言いたいのは道徳の成立する条件を考える際には道徳を守らない状況を考えることが必要にならざるを得ないということだけだ

そもそもヨブ記で作者が立て直したかった神話自体が、集団の成立を基盤としている以上、人々の幸福願望(精神的や物質的を問わず)だし、最後にヨブが最高の幸福を享受する展開は必然的である。

以上の議論を通して見えてきた最も重要なことは、「じごふざでは信仰をくさす物語であるとの解釈をとってしまいたくなるが別の方法が存在することを発見した。

テッド・チャンが否定したのは信仰ではなく「地獄の否定」となる。

キリスト教を信仰するものはすべて報われるとしたら強姦魔だって天国にいくことができる。神はキリストの死によって原罪を克服したのにも関わらず地獄という概念は教会により公式なものとされてしまっている。地獄があり、しかもヨブ記で記されるように神は人々の応報主義・幸福願望を超えた崇高な目的があるとするなら、今回の物語における不協和を克服する方法は、指摘された現在の世界の矛盾を克服するためには、小前提「キリスト教的世界観を否定する」⇔「地獄を否定する」の方法をいまのところの自分は考えていて、しかもこれらの小前提はヨブと3人の友人の小前提のように真っ向から対立するものではない。「世界観の否定」とは「地獄の否定」に内包されている(地獄の否定にさらに条件を付けくわえたバリエーションの一つ)である。我々が受け入れやすい世界観はどちらであるか、むしろ欧米人において受け入れやすいほうはどちらか、明白であろう

 

結論

テッド・チャンは彼の才能を生かしすばらしい物語を作り上げた偉人である

物語はただそこにあるのみで、教訓や哲学を読み取るのは我々に着せられ、それらは作品と独立している可能性がある。

そのうえで、この話はキリスト教の否定という読みでは広すぎる。「地獄の否定」という少ない条件でも、教訓を読み取るという営みは成立することができるかもしれない。

[補足]物語を貫いている思想が馬鹿らしいと言っているわけではなく、そもそも物語から読み取る営みは作品と独立しうる可能性があると私は考えていた。先行資料がありそうだけど見つからない......
そのうえで、もし教訓を読み取りという形で読解をするなら、この話は言うて地獄の否定までじゃね?くらいの気持ちではある。

[補足]自分は予定の都合上、会に出席できずこのノートで読んだ感想をまとめたのだが、聞いてみるとなんと会においても「信仰と地獄は対立してないか?」という話題になっていたらしい。偶然にしても、考えた結論が一致してしまったの面白過ぎる

[補足]例の映画シリーズをみた友人が前から「前のとは違ってこの映画群は神と個との対峙なんだよ!!!!!」的なことを言っていて、自分はずっと何言っての思ってたけどこういうことなのね完全に理解した(たぶん違う)