21/2/4 文系と理系についての本の感想

大学には何千人もの学生が在籍しているはずだが、自分が頻繁に関わっている人はまあ本当に少ない。両手で数えられる程度しかいない。ましてや文系に関わる人は高校の友だちくらいしかいない。

なのに周りでは経済の仕組みやら、より合理的な考えを見つけるために興味を示す人やらた~くさん文系科目に興味を持ってる人がいる。物理学部でそういう倫理経済法学に興味持つ人が多くなってくるのはもうそういう伝統なんですかね?先に述べた友人が「文系は理系と比べて本当に本を読まない。すぐに実になることを求めようとするからホリエモンの本しか買わんで」と言っていた衝撃は今でも忘れられてない。いや流石に言いすぎだろ…。

そんなわけで、自分は偏見にまみれた状態にいる。しかも自分の周りもそういう人が多いからどうしようもない。そういうわけでステレオタイプを排すため表題の本をよみ、自分の周りの人と共有することを目的としてこの文章を残すことにした。

なおこの記事では本書での歴史的記述をすべて真として考察する(参考文献漁る体力はなし)。あと勘違いもあると思います

文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)

文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)

 

政治体制により形作られる自然科学

 自身の周りには経済基盤がしっかりとしている学生が多いし、これは一般論に通ずる。実際なににも意味がないことに大量のお金を費やすのは不合理で、社会制度を維持するため・生活や武力、生産を向上させるためなど目的が必ず必要だし、何世代に渡って統治者が道楽に多大なお金を費やせるのはまれだ。多くの場合国力が疲弊して崩壊する。

では大学という制度が遡れる限界、中世ではどのような大義名分があったのか?という視点から現代の大学制度までの系譜を辿るのが本書の第1章だ。中世に従来教育を提供していた「教会」以外の古代ギリシアの文献組合組織、ギルド的なつながりから大学が誕生し、後に貴族や平民の人材育成機関になる…といった流れが示される。

ヨーロッパ(後に述べるが東アジア含め)下級に算術や天文学は統治に必要なものの、理工系分野は文化が当時大学に通うような人々と全く異なっていたようだ。統治者に対抗するため同系の職業が集まってできた団体(ギルド)内で完結し、理工系は低級なものとしてみなされていたというのがとても興味深かった。17世紀に自然科学が芽生えてきた時期でも、当初は大学の層と文化の違う人々により同人として楽しまれていたのだ。この活動は次第に社交と分離しアカデミー活動となり、王権の庇護を受けながら運営されていく。

自分の中でクリティカルだなと思ったのがパリ王立アカデミーの成功で、このころ科学の議論に「宗教の話を混ぜてはいけない」という決まりが生まれたようだ。よくよく考えるとこの考え方は決して自明ではない!神が世界を作り出した話は人類の"直感"により支持され、自然科学はできるだけ神の創造物を理解しようとする試みであるはずだからだ。

しかしフランスでは規則で神の話を避けようとした。なぜか?革命で政治的な活動に大きなリスクが生まれたからだ。今から見るとこの科学への態度は発展と相性がよいと理解できるが、これは思想でなく力学として生まれたことに感嘆した。自分は「どうせ制度は外部要因からじゃないと変わらないし変われない」という信仰をもっており、実際パリ王立アカデミーの態度が「科学に対するまるで宗教的な信仰」からでなく社会情勢としての工夫として生まれた事実が私の論を支えるものだったのがこの本で一番の衝撃だった。

このあと自然科学に押され経済学の母体となる政治思想、つまり数理で経済を解析しようとする考え方が生まれたり、近代(つまり今!)の大学制度はドイツから誕生したこと、一般性や普遍性を重視する自然科学に対し、歴史など「一回しか起きない現象」「特徴のある文化」を研究する需要があり人文も存在するなどまあ色々書かれているので読んでみてほしい。

東アジア→日本の学問体系

ここは触りだけ触れるが、つまり東アジア(というより中国から諸国へ伝わった国家の体系?)も同様に"道"とよばれる儒教道教が上で"術"とよばれる天文医学数学戦術など下級の学問(とはいえ官僚機構に必要不可欠ではある)があり、宣教師が来ても術として技術を習得するだけで事足り人文と理工の区別が付きようもなかった「日本」の話などが続いていく。

明治維新後の日本だが、官僚制度として技官と文官がはっきりと分かれ、だいぶ時代が下った1910年代に中等教育で文理と分かれた、という流れは多少面白かった。また、技官の部署でも文官が長となるなど技官の影響力の低下による鬱憤はこのころからあったようだ。

自分がこの本で気になったのはこのくらいで、後はパラパラとトピックについて触れていくが、一応説明すると本書はここまでで半分くらいである。

社会構造

日本は大学さえ出てしまえば文系学部出身でもエンジニアになれるくらいには職業選択の自由が存在するが、文理ともに専門性の高い人材が育たないという指摘はもっともだなと思う。一方で社会的進度の高い国で起きた「格差拡大」の問題、またハイテク多国籍企業は脱税にいそしみ別に国家や地域の税収増につながるわけではなく多額の投資は専門性の高い人材に費やされ地域の人々に行き渡らないという指摘は、もっともすぎて笑ってしまった。その反動として国連によるSDGs、また人文と自然科学技術をまとめる人々(STEAM)という枠組みでイノベーションを図ろうとしている、というのが最近の流れだそうだ。個人的にこの動きはいいと思うのだが、このことを他人と話していると「なんか目標が小学校の道徳の授業みたいだし、理念を大体的に宣伝するのは馬鹿らしくない?」といわれ、自分はできれば世界が自分にあわせてほしいし、共有できる理念のようなものがほしいと考えてる人間なので馬鹿らしいという考えはあまり理解できないが、まあそういう冷めた考えのひとは多いだろうとは思う。

その後男女の学問適正の話があり、周りの態度や自信の有無で変わってくるよね、とは言え発展すればするほど男女の差が(日本でも昔とくらべて)縮まってくるよねという話が続いていく。NPR(米公共ラジオ局)ソースで、テレビゲーム流行の80年代から、コンピュータサイエンスの女性の割合が35%超から2割以下に下落した、などの実例を見ると、まあ社会的なジェンダーバイアスは明確に存在するんだろうなという気になる。

 またそのバイアスは男性にも存在し、早く社会に出たいという傾向が(低所得者なら特に)強かったりする結果、先進国的職業は言語リテラシーを必要とするコールセンターや介護等が多くなるためより一層言語リテラシーが身につきにくい男性という性の貧困が問題になる、などの事例があるようだ。農業や工場が撤退してしまいサービス業中心になると、男性は同年代の女性に仕事を奪われてしまう。しかし日本では工場が割とあり男性の雇用を支えているし、女性の社会進出は欧米ほどではない。このような社会状況になる前に潮流はSGDsなどに移っているというのが現状だろう。

教養の復活

今まででの文章では触れなかっったが学問のタコツボ化については昔から問題になっていたという指摘がたびたび本書でなされており、SGDsやSTEAM的人材を必要とするニーズに応え大学院での教養授業というものがなされつつあるようだ。実際MITのリベラルアーツは有名(らしい...)し、東工大でもリベラルアーツ研究教育院という部署が発足している。

個人的な思いだが学部1年生の頃の教養で自分はこのように大学の学習や議論系の授業を取ってめちゃくちゃ楽しかったし、院生になってからあるテーマについて学部横断しながらガヤガヤ議論するという授業はとても面白そうだ。うまく行かないなら色々リセットして他のこと色々試す、という思想は人間関係だったりいろいろデメリットはあるものの自分はけっこう好きな思想方向なので、大学には色々試してみてほしいなと思っている。

ちなみに受けた授業は山内保典先生の科学と情報の授業だ。毎回1200字レポートがあるがわざわざこの授業を選ぶ人なら楽しくてすぐ書き終わってしまうだろうし、内容は授業の振り返りなので頭を整理するのに役立つ。でも今はコロナなのであまりうまく議論できなさそうだな~どうなんだろ?2セメなのでぜひ1年生には受けてほしい授業の一つだけど......

まとめ

結局自分は文系と理系はなぜ分かれたのかという主題ではなく、文理ふくめた歴史の原因と結果のほうに興味があるんだなあとこの文章を書いていて感じたし、現在の世界の流行やこれからの流れについて整理できたのは良かったと思う。ただ自分ひとりだとあまり考えを深めることができない部分があるし、文系の話については全く意見することが思い浮かばなかったので記録を残すことができなかった。ぜひ他の分野の方の感想文を覗きたいしガヤガヤ話したいな~という気分になった。おわり